2017年

7月

02日

分からない時は棚に上げておくこと

神田宏大牧師が亡くなられてから1年が過ぎた。

野崎キリスト教会では、この1年、新しく牧師に就任したシェーン牧師とその奥様とともに、

互いの交わりを大切にしながら、皆で少しずつ前に進んできたと思う。

神田牧師が生前教えて下さった言葉や生き方は、これからも教会の一人一人の心に刻まれていて、

教会や個人の歩みを時には助け、導いてくれることと思っている。

 

最近、タイトルのような神田先生の言葉を思い出した。

自分の進もうとする道が分からなくなった時、あるいは目の前の出来事を判別する時、

また、人や物事への対応が分からない時など、

なかなか答えを出せない時のことだ。

私たちは、生まれてから今まで、家庭や学校や職場などで、「早くすること」を求められてきたこともあって、焦ってすぐに答えを出したくなったりする。

 

私自身も、白か黒か、イエスかノーかをすぐにはっきりさせたい、せっかちな性格であるが、

神田牧師にはよく、「すぐに答えを出そうとするな」と言われたものだ。

自分の人生のヴィジョンや計画などについても、現在の状況だけで決めてしまわずに、

「分からない時は棚にあげておく。そして、後からもっといい材料が出て来たら、ドッキングさせて考えたらよい」

というようなことをおっしゃていた。

 

 私たちの人生は、まず神さまの御手の中にあることを覚えなくてはならない。

そして、神さまにすべてを委ねていく時に、神さまのなさることが段々と分かるようになり、神さまの導きを正しく理解することができるのである。

 

聖書に、次のようなみことばがある。 

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3章11節より)

 

人間の目からすると、分かりにくく、複雑に絡み合っているような問題があったとしても、

神さまのみわざは完全で、まさにちょうど良い時に最善のことをして下さるのだ。

だから、現時点で分からなくてもいい。焦って勝手な判断をせずに、棚に上げておいて、

神さまが下さる次の材料や答えを待つこと。

そうしていくことで、私たちは神さまの素晴らしい恵みのみわざを、私たちの人生の中に見ていくことが出来、神さまとともに歩む喜びを知ることが出来るのである。 

1 コメント

2016年

10月

09日

詩篇23篇を読みなさい

神田牧師がすい臓がんで亡くなってから3か月が過ぎた。

神様と人のために懸命に生きておられた神田牧師がこの世にいないのは寂しいが、

生前神田牧師がカウンセリングなどの中で語っていた言葉は、

私の心の中で大きな支えとなっている。

 

私は以前、カルト化した教会に行っていたことがあった。

その影響もあって、

聖書を読むと、そこに書いてある言葉が自分に直接語られているように感じる癖が強かった。

特に、聖書に書いてある神様の裁きの言葉がすべて自分に語られているようで、

怖くて聖書が読めないことが多かった。

そのうえ、うつ病をも患っていたので、

気力はなく、すぐに落ち込んで人生を否定的にとらえてばかりいた。

そんな私が神田牧師にカウンセリングしてもらうことになった。

 

最初の頃は、牧師は私に、

「あんたは今は聖書は読まなくていいから。」

と言って、私の話をひたすら聞いて下さっていた。

しんどい時はいつでも電話してもいいことになっていた。

 

そして、少し私が回復してきて、

聖書を読みたいけれどまだ怖くて読みづらい時、

「聖書は詩篇23篇を読みなさい。」

「詩篇23篇を繰り返し読みなさい。」

と言って下さった。

かなり元気になった後も、

私が落ち込んで不信仰な気持ちになった時など、

「詩篇23篇を読みなさい。あそこに書いてある通りだから。」

と勧めてくれた。

 

詩篇23篇は、聖書の中でも、

神様が私たちとともにいて守り導いて下さることを強く思わされる箇所である。

 

詩篇23篇 ダビデの賛歌

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 
神様である主は私たちの羊飼いとして、
私たちを守り導き、正しい道へ導かれる。
だから、羊である私たちは、安心して主のもとで憩うことが出来る。
特に神田牧師は、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、」の箇所を示し、「食事をととのえる」とは宴会のことで、
「たとえ敵である悪魔がいたとしても、神様はその前で宴会を開きごちそうをととのえてくださるのだ!」と強調されていた。
私たちの敵である悪魔が、私たちを苦しめ惑わそうとしている時でも、
神様は私たちのために、神様の宴会を開いて下さるのだ。
これは、私たちが敵に対して圧倒的な勝利が約束されているということだ。
「まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。」
このみことばは、私に深い安心と神様への信頼を覚えさせ、
いつも神様とともにいて、すべてを神様に委ねようという信仰を確かにしてくれる。
心が沈んだり、不安や恐れにかられたりする時、
私は詩篇23篇を読むようにしている。
このみことばには、神様の恵みの豊かさが書かれ、
神様を信じる私たちには何も恐れるものはないことを思い出させてくれる。
また、悩みや絶望の中におられる方はもちろん、すべての人々が、
この詩篇により慰めと励ましを受けられることを願っている。
0 コメント

2016年

5月

22日

人は変わりうる

私たち人間が生きていく中で、決して避けることが出来ないのが人間関係の問題です。

実に人はそれぞれ千差万別であり、人には長所も欠点もあります。

特に、人間は生まれながらに罪を持っており、

その生い立ちや環境、ストレス、その人の性質などの影響によって、

様々な問題行動に出たり、時には病気という形に現れることもあるのです。

 

ですから、様々な問題や悩みを抱えるだけでなく、他人を苦しめるような人もこの世には沢山います。

特に最近では、イスラム国と呼ばれるISという組織がテロ行為を起こして、

悲惨な事件を世界中で起こしていたりもします。

 

私たちの身近にも、テロ行為などはしなくても、

私たちを傷付けたり、色々な迷惑をかける人がいることがあるかもしれません。

あるいは、私たち自身が周囲の人に迷惑をかけている場合もあるかもしれません。

 

私たちは他者との関係の中で、誰かのことで苦しんだり、自分自身のことで悩んだりすることがあります。

私にもそのようなことがありました。

そんな時に神田牧師は私に、

「人は変わりうる」

と何度も言って下さったのです。

どんな人でも、何歳になっても、人は変わることが出来るのだ、と。

 

聖書に、預言者エレミヤが神様に導かれて、

陶器を作る陶器師の家に行くという場面が出てきます。

 

 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。

 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

 それから、私に次のような主のことばがあった。

「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。-主の御告げ-見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」

(エレミヤ書18章3~6節)

 

神様は陶器師が陶器を作るように、人を作り替えることの出来るお方です。

人が現在どのような状態にあろうと、その人が神様の手にゆだねられたなら、

神様ご自身がその人を神様の作品として、新しく作り替えて下さるのです。

 

私たちは、人と調和するために様々な努力をしたり、相手と話し合いをしたりしますが、なかなか相手の態度ややり方が変わらないこともあるでしょう。

また、自分自身が変われないこともあるかもしれません。

そのような時、もうダメだと絶望してしまうかもしれませんが、

まずはその人自身を神様の御手にゆだねることが大切です。

私たちが自分や人のために神様に祈り、神様の御手にゆだねていくなら、神様がご自身の時に、最善の方法で、その人を作り替えて下さるという信仰を働かせていこうではありませんか。

神様が働いて下さるなら、「人は変わりうる」のです。

0 コメント

2016年

4月

06日

捨て身でやる

神田牧師が末期の膵臓ガンで、余命が1カ月しかないと医師から言われてから、

もうすぐ1年になる。

牧師は調子の悪い日もあるけれど、

相変わらず聖日礼拝の説教もしているし、

キリシタン研究の講演もやれば、

様々な人々のカウンセリングも続けている。

これには医師も驚き首をかしげている。

 

常識からすると不思議なことであるが、

神様には不可能なことはないし、

野崎キリスト教会の人々は、

神様に感謝しいやしを祈りつつ、見守っているところである。

 

神田牧師は、

「天国に行こうとしたら、

僕にぶらさがっている人間がたくさんいるのを見て、

神様にもうちょっとこの世にいるように言われたのかな」

などと笑って言っている。

 

確かに牧師は、教会内外で神様のために様々な活動をし、

特に困っている方には惜しみなく時間と労力をさいてきた。

その態度に、まだクリスチャンでない私の母も、

神田牧師の向こうにおられる神様の存在を感じ始めたようである。

 

牧師はよく「捨て身でやること」「捨て身でやれば、神様の働きを見られる」「捨て身でやれば、人は信用してくれる」などと言ってきた。

牧師は私のカウンセリングにも、一切料金を取らず、

私が本当に大変な時は、夜中でも何時間でも電話に付き合ってくれたりした。

 

そのような神田牧師のカウンセリングで、

心の病や様々な問題を乗り越えて、

人生に素晴らしい神様の光と喜びを体験してきた人も少なくないのだ。

 

そのような牧師が、残りの人生を神様のために生きていこうとする中で、

神様も働いて下さって、

この一年近くの間、牧師の命を生かし延ばして下さっているように思える。

 

捨て身で生きるとは、自分の命や大切なものを一切放棄する覚悟で生きることである。

それは、生まれながらの人間がたやすく出来ることではない。

しかし、神様は私たちを導いてその力を与えて下さる方である。

そして、私たちが自分自身を神様に委ね、神様のために生きようとする時、

神様は素晴らしい愛と栄光のみわざを見せてくださるのだ。

 

主イエス・キリストも、従順に神様のみこころに従って生き、

十字架の死を全うされたからこそ、

人類の罪の赦しと救いのみわざが完成した。

 

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書12章24節) 

 

自分の利益や損得にこだわっているうちは、

自分の狭い考えの中での自分のための人生でしかない。

しかし、神様を仰ぎ、捨て身で神様のために生きる時、

人が想像もしないような素晴らしい豊かな人生を神様が見せて下さるのだ。

1 コメント

2015年

12月

13日

人を包んであげること

現代を生きる人々には心の余裕がなくなってきている。

人間関係が希薄になり、

子どもも大人もキレやすく、ちょっとしたいさかいから殺人事件に発展することも多くなってきた。

 

ネットを見れば、人への中傷やレッテル貼りによる悪口であふれていることもある。

 

人間はどうしてこんなに気が短く、心が荒んできたのだろうか。

 

原因は色々ある。

社会的な背景として、教育の問題、経済が低迷していること、

また、テロや、国と国との緊張関係など、

世界的にもあまり平和な方向に向かっていないこと、など。

 

しかし、私たち人間は本来、神様がご自身のかたちとして創造された素晴らしい存在である。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1章31節より)

 

このように書いている私も、結構気が短く、

自分のゆがんだ正義感を振りかざして家族とケンカをし、

神田牧師に叱られることもある。

 

神田牧師はよく私に言う。

「もっと幅を持たせることが大切だ。

たとえ正しいことであっても、今その人が言われるとしんどいこともある。

もっと人を包んであげないと。」

と。

 

人を包んであげること。

これは、心に本当に余裕があってはじめて出来ることだ。

しかし、私も含めて、現代人は心の余裕がなかなか持てないようだ。

 

人や物事をすぐに判断して、答えを急ごうとするのは、現代社会の病であるのかもしれない。

しかし本当の答えは、長い目で見ないと分からないことも多い。

そして、人は変わるし、成長もする。

この先どうなるかなんて、人間は正しい予測が出来るものではない。

 

目の前の状況だけを見て、人にレッテルを貼って裁いたり、

大切な物事を諦めたり、誤った判断をしてしまったりしてはいけない。

 

今自分にそんな余裕はない・・・と感じるかもしれないが、

そんな時、私たちは神様を思い出し、神様を見上げるべきである。

なぜなら、神様は私たち人間を愛し、いつでも物事を最善へと導いて下さる方だからだ。

 

「神様を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ人への手紙8章32節)

 

イエス様を救い主として与えて下さった神様は、

私たちを愛し、私たちに最善のものを与え、すべてを益に変えて下さるのだ。

この神様に信頼して、すべてのことを委ねていくなら、

私たちの心には平安と希望が生まれ、余裕が出てくる。

 

そして、イエス様はこのように語っておられる。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネの福音書15章12節)


神様にあって、神様を信頼する心で他の人を見ていくなら、

無理をしなくても、私たちは人を包み、人を愛し、見守っていく心を持つことが出来るようになる。

そして、取税人や罪人と一緒に食事をし、失敗だらけの弟子たちを信頼して忍耐強く教え導かれたイエス様のように、人を包み、待ち、見守っていく愛を神様によって与えられていきたいものである。

0 コメント

2015年

8月

07日

小さくてもいいから温かい教会を

先月の初めに、私たちの教会は今までの会堂から新しい会堂に引越しした。

引越しするまでの数か月は、

荷物の片付けや処理、新しい会堂の設備を整えたりと大忙しだった。

しかしこの間、教会の人々やその家族までもが加わって、

それぞれが出来ることを精一杯やり、

協力し合えたことは嬉しかった。

 

野崎教会は、その引越しの作業とともに、

より重大と言える問題に遭遇していた。

実はこの5月の初めに、牧師である神田先生が末期のすい臓がんであることが判り、

がんはすでに肝臓にまで転移していて手術は無理であり、

抗がん剤治療でどれだけ延命できるかということであった。

私たちはそれぞれが必死で祈った。

今も神様の助けといやしを祈り続けている。

 

そんな中、神田先生は今まで通り教会のため、伝道のため、

キリシタン研究のために熱心に働いている。

確かに時々疲れているような様子も見られるが、

なんだか顔色が一時よりも良くなってきたように思う。

先日の検査では、全体としてがんは小さくなってきたということが判った。

そして、先生と話をすると、体を患っているわけでもないこちらよりもずっとパワフルで、

魂が色々なビジョンに燃えているのが伝わってくるのだ。

 

引越しの準備を始めた頃に、先生は、

「新しい会堂は小さい。でも、小さくてもいいから温かい教会がいい。本当に神様を礼拝して、助け合える教会にしたい。」

というようなことを言った。

以前から、神田先生は、教会の成長とは、人数を増やすことではないと言っていた。

大きな会堂や立派な会堂、人数の多さなどは問題ではない。

本当に神様に頼る人たちが集まって、

小さくても温かい教会、

どんな人でも安心して来れて、互いに支えあえる教会。

それが本当の教会の姿であり、

野崎キリスト教会がこれからも目指していく姿なのである。

 

教会に集められたそれぞれには、

弱さや欠点もあるかもしれない。

でも、今日も神様が神田先生を生かして用いて下さっていることを感謝しつつ、

いま自分が出来ること、

神様が望んでおられることをなしていけたら・・・と思わされている。

1 コメント

2015年

7月

23日

アバウトになれ

私が神田牧師にカウンセリングを受けていた時、

先生からよく言われた言葉だ。

 

この「アバウトになれ」とは、いいかげんな生き方をしろ、ということではない。

私は几帳面すぎて神経質な部分があり、

また、すぐに悲観的に考えてしまって自殺をしたいと考える傾向のある時があった。

そんな私だからこそ、アバウト、すなわち、いいかげんで、おおざっぱになったほうがよいということであった。


私がそのような大変な時に、

神田牧師は神様にあって根気よくカウンセリングして下さり、

なかなか難しい状況と思われる時でさえ、

信じて私のために神様に祈って下さっていた。

おかげで、私は心が元気になり、

それ以前にも増して前向きに生きる力が与えられている。


しかし、その後も、

私は性格的には神経質で、色々なことを気にしすぎたりくよくよしたりする傾向はまだある。

そして、生きていると、やはり弱さを感じたり、不安や恐れにかられる時もある。

そのたびに思い出す。「アバウトになれ」と。


アバウトであるとは、様々な解決しがたい問題を前に、

必死で自分の力で解決しようとしてもがくのではなく、

神様に委ねて生きることにもつながる。

「自分には出来ないけれど、イエスさまよろしくね。」と委ねながら生きること。

それは、神様にのみ希望をおいて信仰によって歩むことである。


人間は、何かを心配したり、気にしたりするあまり、

物事を悪い方悪い方へ考えてしまったり、落ち込んでしまうことがある。

悪魔はそんな人間を絶望の淵へ追いやり、

生きる気力をなくさせようとしていることに注意しなければならない。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネの福音書10章10節より)」


しかし、神様は、私たちが神様に頼るなら、すなわち、羊の囲いの中にさえ入っていたら、

命がけで羊である私たちを守って下さる。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10章11節)

また聖書には、

百匹の羊のうちの一匹をなくしたら、九十九匹を野原に残して、

いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩いて下さる神さまの姿が書かれている。

神様はそのように、一番弱い羊、迷いやすい羊やいじめられている羊を守って下さる方である。


私たちが囲いの中に入った時に、神様は私たちを守って下さる。

神様が守ってくれるだけで私たちは安心なのだ。

神様は神様の助けを必要としている人を助けてくれるので、

私たちは弱くて出来ないままでよいのである。

そして、神様に愛されていることが分かったら、私たちは決して弱くはない。

神さまは弱い者を強い者に変えて下さることも出来る。

ここを通ったから強くなれる、ということもある。

神様の教会は、弱い人のための教会なのだ。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節より)

イエスさまは今日も私たちに語りかけて下さっている。

この神様に目を上げ、弱さをも神様に委ねて歩んでいきたいものである。

0 コメント

2015年

4月

05日

全体を見る目を持て

 人生には、時に様々な困難な出来事が起こってきます。

 私たち人間は、それらのことに一喜一憂して、恐れたり、混乱したり、絶望したりしてしまいがちではないでしょうか。 

 しかし、聖書には、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

と書かれています。

 人生に様々な困難や試練や、嫌な出来事があったとしても、神様の御手の中で、それらのことさえ、益に変えられていきます。

 

 もし、私たちが目の前の出来事だけを見て一喜一憂していては、そのことに振り回されるだけです。そして、落ち込んだり、自暴自棄や不信仰に陥ったりしてしまい、悪魔の思うつぼになってしまうでしょう。

 ことわざにも「木を見て森を見ず」とあるように、物事の一部分や細部に気を取られていては、全体を見失ってしまいます。

 私たちは、物事と人生の全体を見る目を持つべきなのです。

 

 それでは、物事を近視眼的にとらえてしまうだけではなく、全体を見る目を持つにはどうすればよいのでしょうか。

 それは、神様に目を向け、「信仰」を働かせることです。

 ギリシャ語の「人間」=「アンスロポス」とは、「上を見上げる者」という意味を持っています。

  人間は神様に目を向け、神様に祈り、助けを求めることが出来ます。

 

「私は山に向かって目を上げる。

 私の助けは、どこから来るのだろうか。

 私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121篇1~2節)

 

 私たちが神様に目を向けて、信仰を働かせるならば、目の前の問題だけにとらわれることはなくなります。そして、この問題を通して、神様はどのように働いて下さり、自分を導いて下さろうとしているのか、信仰の目で物事を見、物事の全体を見ることが出来るようになります。 

 私たちは、どのような時にも、神様に目を向け、神様の御手に委ねていく信仰を持ちたいものです。

 

「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。

 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、船は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。

 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』

 イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」

                       (マタイの福音書8章23~27節)

0 コメント

2014年

12月

07日

悪魔がニタッと笑っているのを思い出せ

私たちの人生には、様々な困難なことが起こることがあります。

それらには色々なケースがあり、原因がありますが、

もし私たちがある出来事に際して、

落ち込んでいたり、人と人とが仲違いしてしまったりするなど、大変な状況に陥ってしまった時、

冷静になって、今この時に、「悪魔がニタッと笑っていること」に気付かなければならないと、神田牧師はよく言っています。

 

聖書には、神様のことが書かれていますが、

同時に、悪魔の存在についてもはっきりと書かれています。

 

創世記において、最初の人類であるアダムとエバが罪を犯すようにそそのかしたのは悪魔です。

悪魔は、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3章1節より)とアダムとエバに神様の言葉を疑うように仕向け、

「あなたがたは決して死にません。」と言い、園の中央にある木の実を取って食べると必ず死ぬと言われた神様の言葉と正反対のことを言ってだましました。

結果彼らは罪を犯してしまうことになり、エデンの園から追放されてしまい、

神様との交わりが絶たれてしまいました。

 

悪魔のことを、聖書には、 

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネの福音書10章10節より)

と書かれてあります。

 

私たち人間の大切なものが奪われたり、自殺や殺人が行われたり、堕落や滅びへと向かっている時に、

実はその陰で悪魔がニッコリとほくそ笑んでいることがよくあるのです。

もし私たちが問題を前にして落胆したり、誰かに憎しみを抱いていたりするなら、

「あ、今、悪魔が喜んで笑っているぞ。」 

「この問題を通して、結局悪魔が一番得をするんだ。」

と気付いてみることは非常に大切です。

 

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ人への手紙6章12節)

とあるように、

私たちが闘うべき敵は、血肉を持った人間ではなく、

私たちの弱みにつけこんで私たちを落胆させ、だまし、堕落させ、滅ぼそうとする悪魔なのです。

 

悪魔は私たちが悲しみ、落胆し、希望を失う時、あるいは誘惑されて道を間違えそうな時、あるいは人間関係が壊れたりする時、

ニタッと笑ってさらに私たちを絶望と滅びへと追いやろうとしているのかもしれません。

 

しかし、同時に聖書には、

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ人への手紙8章37節)

とあります。

神様を信じる私たちは、どんな状況にあっても、神様によって素晴らしい勝利が与えられるのです。

 

悪魔の存在には注意を払わなければなりませんが、取り立てて恐れることはありません。

悪魔はすでに敗北しているのです。

私たちを愛し、守り、いつも最善のものを与えて下さる神様にすべてのことを委ねながら、

困難や誘惑にひるむことなく、神様とともに歩んでいきましょう。

0 コメント

2014年

10月

27日

キャッチボールしていることが大切

人と人との対話が出来ていることをキャッチボールに例えて語ることがありますが、

このキャッチボールをしていることが、

人と人との関係においても、

また、神様と人との関係においても大切です。

 

現代社会においては、人と人とのつながりが希薄になり、

家庭が壊れ、人間関係が壊れて、

様々な悲しい事件や問題が起こっています。

人と調和していくことが難しくなっている人が大勢います。

 

しかし私たち人間が、家族や周りの人と調和して

言葉のキャッチボールをいつもやれているなら、

そこには人生の素晴らしい幸せとハーモニーが生まれます。

  

聖書には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1章27節より)
 とあります。

私たち人間は、本来、神様がご自身に似たものとして造られ、神様と交わりの出来る存在でした。

しかし同じ創世記で、最初の人類であるアダムとエバが罪を犯した時、

彼らは神様との交わりから遠のいてしまいます。

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3章8節)

 アダムとエバはその後、エデンの園から追放されてしまい、

神様との交わりが絶たれてしまいました。

 

私たち人間が、人との調和が出来なくなり、

様々な悲しい事件や戦争を起こしてしまうようになったのも、

そもそもは罪を犯して神様の元から離れ、神様との親しい交わりが出来なくなったことが原因であると言えます。

 

しかし私たちが救い主イエス・キリストを受け入れ、神様に立ち返るなら、

永遠の命が与えられ、神様の愛を知り、神様との愛の交わりに入れられるのです。

 

「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエスキリストとの交わりに入れられました。」(Ⅰコリント人への手紙第一1章9節)

 

私たちは神様に自分の心を受け止めていただき、

神様と心のキャッチボールをすることが出来るのです。

礼拝や祈りなどの日々の信仰の生活の中で、

神との交わり(=キャッチボール)が出来ていると、

そこには神様との素晴らしい調和が回復されます。

 

またそれによって、人との関係においても、

他の人を愛し、心のキャッチボールをすることが出来るようになり、

そこに調和が表されるようになるでしょう。

 

人間は、まずは神様とキャッチボールをすることが大切なのです。

そして、神様の愛を知ることにより、

人と人とのキャッチボールもスムーズに出来るようになるのです。

 

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(ヨハネの手紙第一4章7節)

0 コメント

2014年

9月

07日

桃栗三年柿八年、馬鹿な神田は二十年

  桃栗三年柿八年、ということわざがあります。芽生えてから実を結ぶまでに、桃と栗は三年、柿は八年かかることから、何事も成就するまでにそれ相応の年月がかかるという意味があります。

 

  このことわざを使って、神田牧師はよく「桃栗三年柿八年、馬鹿な神田は二十年」と言っています。神田牧師は、神様の働きをするようになれるまでに、ずいぶんと時間がかかったのだそうです。 

 

  神田牧師は、多感な中学2年の時に、それまで元気に働いておられたお父様の仕事が窮地に追い込まれるだけでなく、お父様ご自身が胃ガンにかかってしまいました。

 

  病気が治る見込みがない状況の中で痛みに苦しむお父様の姿を見て、将来に絶望と不安を覚えてしまった神田牧師は、ぐれてしまって、毎晩出歩いて遊ぶようになりました。勉強も全くしないで、真面目に生きることが出来なくなってしまった日々。お母様や兄弟が彼のことを心配しました。そんな中でも、お父様は彼に「人のために生きろ。」と言っていたそうです。 

 

  やがてお父様が亡くなり、 生活環境が変わる中で、神田牧師はとうとう教会に導かれ、クリスチャンになりました。

 

  そこから、彼の生き方は180度変わり、神様のために生きたいと思うようになりました。 

 

  ところが、真面目に勉強をしようとしても、長い間やってこなかったので、勉強するのに大変苦労したそうです。漢字もなかなか書けず、なんとか高校を卒業した後も、神学校の英語やギリシャ語でも苦労しました。 

 

  そんな彼も、やがて牧師になり、神様のために働くようになりました。 

 

  今では、教会の牧会だけでなく、色々な方々のためにカウンセリングをしたり、神学校の講師をしたり、ラジオ伝道の働きや、キリシタン研究で講演や執筆をしたりするなど、多くの神様の働きを担っています。 

 

  聖書には、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇3節より)とあり、神様とともに生きる人は、やがて豊かに実を結ぶようになるとあります。

 実がなるまでにかかる時間は、様々でしょう。しかし、その時になると、必ず実を結ぶようになるのです。 

 

  私たちの人生にも、色々な困難や失敗や挫折があるかもしれません。しかし、神様を見上げ、神様と一緒に歩んでいくなら、恐れることはありません。

 

  たとえ私たちが弱くても、たとえ希望が持てないように見えても、神様に委ねていくなら、神様がその人の人生にいつか豊かに実を結ばせて下さいます。 

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネの福音書15章5節より)

1 コメント

2014年

5月

11日

神様の御手の中で

すべては神様の御手の中にある。-クリスチャンはよくこの言葉を使う。
教会に通っていると、「神様の御手に委ねる」ということを教えられ、
自分もそうすることが良いと信じるようになる。
しかし、このことが分かっているようでよく分からないこともあった。
 
ところが、ある時に神田牧師が見せてくれた一枚の絵とその説明が、
自分の信仰を励まし強めてくれた。
 
それは、丸い地球があって、その地球を神様の大きな両手が神様のものとして抱えている絵であった。
牧師はさらに、聖書の冒頭である創世記1章1~2節の御言葉を開いた。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」
最後の「神の霊が水の上を動いていた。」というのは、現代語訳聖書によると、めんどりが自分のひなをかばうように翼でおおっている、という意味である。
すなわち、この世界の初めから、神様はこの地球をめんどりがひなをかばうように覆い守って下さっているということである。
 
このことを自分の頭の中で想像すると、何かとても安心し、神様にますます信頼する気持ちが生まれてきたのである。
 
創世記1~2章では、神様が人間を造られ、いのちの息を吹き込まれ、人間にこの地を託されたことが書かれている。
この世界を創造された神様は、この地球を私たち人間に委ねられ、地上には様々な営みがなされているが、
人間のすべての営みも、自然界も、最終的には神様の御手の中にあるのだ。
 
地球上には、毎日様々な出来事があり、
私たちの周りを見ても、いつも楽しい幸せなことばかりではなく、
混乱や悲劇や、危険や不安を覚えるようなことも色々ある。
しかし、神様は今も地球をご自身の大きな御手の中で支配し、守っておられる。
だから私たち人間は、いつでも安心して神様の御手に憩うことが出来るのだ。
 
たとえ世界がどのように混乱したとしても、神様はめんどりがひなをかばうようにこの瞬間も私たちを守っていて下さる。
特に神様を信じるクリスチャンは、神様の宝の民として生かし、助け、神様の作品として導いて下さっている。
私たちは神様の御手の中で安らぎ、これからも神様にすべてのことを委ねつつ歩んでいけるのである。
0 コメント

2014年

2月

09日

doingではなくbeing

日本の社会では、何かを「すること」、すなわち「doing」が重んじられることが多い。
その人がどんな仕事をしているか、何を頑張ったか、何かを成し遂げたか・・・等々。
 
確かに人間の生き方を考えるうえで、その人の行いは大切な部分でもあるが、
そのdoingばかりを重んじすぎると、
「仕事が出来ない人はダメ」、「何かをやっている人は良くて、暇な人は価値がない」ということになってしまう。
 
しかし世の中には、病気で働くことが出来なかったり、障害があってやれることに限りがあったり、年をとって動けなくなったりするなど、
しようとしてもdoingが出来ない人も多くある。
 
一方、「being」とは、「その人であること」すなわち存在や生命そのもののことであり、
特にキリスト教では、このbeingこそが大切であり、
人が何をしているかよりも、
その人の存在そのものにかけがえのない価値があるのである。
 
聖書には、
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節より)
と、何かが出来るからではなく、存在そのものを神さまが愛して下さっていると教えている。
 
イエス・キリストは、私たち人間のためにご自分の命を捨てて下さり、
一人一人を救おうとされている。
神様は私たちが出来ても出来なくても、どのような状態の時でも、
私たちの側にいて下さる方である。
「馬鹿な子ほど可愛い」という昔からの言葉があるが、
神様はまさに、そのとおりに私たち人間を愛して下さるのである。
神田牧師は 、その体験者でもある。
以前は人生の落ちこぼれであり、
神学校でも「いつになったら真面目になるのか」と周囲を言わしめたほどであった。
(神田宏大で検索してみて下さい。・・・どんな人に変えられたか分かるでしょう。)
 
人はその経歴や能力の有無には関係なく、
自分の存在の絶対的な価値を認められた時に、
心から安心し、自信を持ち、人間らしい豊かな生活を送ることが出来る。
 
クリスチャンの人生は、
自分が頑張って何かを「すること」(doing)ではなく、
神様が私たちの「存在」(being)を愛し、私たちをご自分の子どもとして愛し守り、やがて神様の作品として完成させて下さるのである。
0 コメント

2014年

1月

26日

コントロールできるかが問題

色々な人のカウンセリングをやっていると、
心が病んでいる人は、「自分をコントロール」することが出来なくなっていることが分かる。 
 
アルコール依存、ギャンブル依存、買い物依存といった依存性のある病気。
また、憎しみや怒りや悲しみなどの感情をコントロール出来なくなっている場合。
その他、嘘を付いたり、悪口が止まらなかったり、盗癖があるなど、人によって様々な悪い癖を抱えている場合もある。
 
自分で自分のことがコントロール出来ている間はその人は大丈夫だけれど、
自分のことをコントロール出来なくなってしまったら、
その人の人生は暗くなり、破滅してしまう危険性もある。
 
健やかな人生を送るためには、自分を正しくコントロール出来ることが必要である。
 
自分自身をコントロール出来るようになるためには、人はまず神様に信頼し、神様のもとに安心することが重要だ。
神様に生かされているという安心の中で、人は判断力や自制心を持てるようになっていく。
人間は完璧ではないので、失敗することもあるだろう。
しかし、神様がともにいて下さるなら、たとえ私たちが失敗したとしても、神様は私たちの罪をおおい、私たちを守り、最善へと導いて下さる。
私たちに欠けがあっても、神様に私たち自身を委ねていこう。
神様にすべてを委ねていくなら、真実な神様は私たちの欠けを補い、私たちの人生を完成させて下さるであろう。 
0 コメント

2014年

1月

26日

あってもなくても幸せ

「自分はこれがあると幸せになれる」と思っている人は多い。
人によっては、「これ」とはお金であったり、物であったり、地位であったりと色々である。
 
確かに、何かを得ることによって幸せをつかむことはあるだろう。
しかしそれは、一時的なものであることが多く、もしその人が欲するものを得られないなら幸せになれないということにもなる。
 
もし私たちが神様に信頼するなら、何かが「あってもなくても幸せ」と思えるようになる。
なぜなら、神様はすべてのものを支配しておられ、私たちに必要なものを備えて下さり、最善の人生を与えて下さるからである。
聖書には「私たちのすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8章32節)とある。
 
本当の信仰は、何かを得ても得られなくても、その人が神様にあっていつも幸せだと思えるようにさせる。
それどころか、すべてのものを奪われても神様を賛美しながら死んでいった多くの殉教者たちのように、
「何もなくても私は幸せです」と心から言えるようにさえなれる。
 
0 コメント