『闇の中に輝く光』
ヨハネ福音書1:4-14
ヨハネによる福音書・・・
イエス様の弟子であったヨハネは、AD96-100年頃に「ヨハネによる福音書」を百歳に近くなってから書きました。その頃はイエス様の弟子たちのほとんどが死に、イエス様の事が誤って伝えられ、キリスト教会とは言えない程の誤った異端が出て来ました。そこでイエス様に最も愛された,最も若かった弟子ヨハネが、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」(ヨハネ20:31)とあるように、第四の福音書を書き上げました。三世紀の偉大な聖書学者であったオリゲネスは「福音書は、あらゆる聖書のうちで随一の果実である。ヨハネによる福音書は、福音書のうちで随一のものであって、これは、みずからイエス様の御胸に寄りかかったことのない人には意味が理解できない」と言っています。
榊原康夫著『ヨハネによる福音書講解』で著者は、この意味を「私たち自身が本当にイエス様の御胸に寄り添うて、イエス様との信仰生活の味わいを味わうのでなければ、この年老いた弟子の書き残した霊的福音書の神髄というものは、「なるほどなあ」というふうに理解することはできない。それ程にこの福音書は、年季の入ったクリスチャンの瞑想の糧でございます」と教えています。
この方『言(ロゴス)』に「いのち」があった
「神様と一体である『言(ロゴス)』に『いのち』があった」4と、天地創造の神様は、『言(ロゴス)』によって、天地万物を創造し、そこに生命が宿る動物も創造された。最後に,神様は「御自身のかたちに創造された」と、人間アダムの「鼻にいのちの息を吹込まれた。そこで、人は生きものとなった」(創世記2:7)と語られています。神様の『息』(霊)が吹き込まれて、生かされているのが人間です。そして神様によって「神様の霊的(スピリチャル)生命」が人間に宿り、その結果、「非常に(はなはだ)よかった」(創世記1:31)と書かれています。
永遠を支配される神様の御手の中で・・・
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」4-5と、神様が生命(いのち)の源であり、神様の中には、神様の栄光の光が輝いているのです。だからこそ「やみはこれに打ち勝たなかった」5のですが、現実に、多くの人間が暗闇の中を苦しみ悶えて、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と、パウロのように叫んでいるのです。
先週の週報の中に、「神との調和」のイメージ絵がカラーで印刷されていました。「神との調和」をもたらすのは「十字架の福音」です。私たち人間がイエス様の十字架を見上げる時、罪が許され神様の子供として受入れられるのです。
あなたが神様の所に帰るなら、神様は放蕩息子の譬え話しの、お父さんのように、「走り寄って、あなたを抱きしめてくれる」のです。罪許されただけでなく、「子供としての特権」が与えられるのです。
神様との平和が与えられ、神様との関係に良きハーモニーが与えられれば、自分自身の中に良きハーモニーが湧き上がって来ます。そしてあなたの隣人との良きハーモニーが、さらに自然の世界との良きハーモニーが、あなたの人生の中で湧き上がってくるのです。
その反対に、もう一つの絵が印刷されていましたね。神様に背を向けている男の顔には平安がありません。神様との関係が失われると、自分の心の中にも不協和音が起こり、暗闇の人生に苦悩するのです。勿論、隣人との不協和音が起こり、混乱と無秩序の中で自然を破壊してしまうのです。
自分の影を踏みつけて生きている人々
神様に背を向けて生きている人々の人生は、「神様は光りであって、少しの暗いところもない」お方ですので、神様に背を向けて歩いていると自分の前には、神様との平和がないために、自分自身の影・闇を自分自身で日々踏みつけて歩かなければならない日々を送っているのです。
「神様は光りであって,少しの暗いところもない」御方であるのに、神様に背を向けた人々の人生は、暗闇が前に、常に立ちはだかっています。そのような人生に幸福があるでしょうか。
放蕩息子が、お父さんに背を向けて「放蕩に身を持ち崩し、当時奴隷の仕事であった『豚飼い』に雇われたが、ひもじさのために、豚の餌さえ食べたいと思うようになって、はじめて『お父さんの処に帰ろう』と決心し、故郷の家に帰りました。
お父さんの方が、遠くに、とぼとぼと帰って来る放蕩息子を見つけ、走り寄って抱きかかえ口づけし、きれいな服に着替えさせ、宴会をしてくれたのです。あなたも神様のに近づき,イエス様が「神様の栄光」に輝くのを身近で経験しようではありませんか。
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
(ヨハネ1:9-12)