アバウトになれ

私が神田牧師にカウンセリングを受けていた時、

先生からよく言われた言葉だ。

 

この「アバウトになれ」とは、いいかげんな生き方をしろ、ということではない。

私は几帳面すぎて神経質な部分があり、

また、すぐに悲観的に考えてしまって自殺をしたいと考える傾向のある時があった。

そんな私だからこそ、アバウト、すなわち、いいかげんで、おおざっぱになったほうがよいということであった。


私がそのような大変な時に、

神田牧師は神様にあって根気よくカウンセリングして下さり、

なかなか難しい状況と思われる時でさえ、

信じて私のために神様に祈って下さっていた。

おかげで、私は心が元気になり、

それ以前にも増して前向きに生きる力が与えられている。


しかし、その後も、

私は性格的には神経質で、色々なことを気にしすぎたりくよくよしたりする傾向はまだある。

そして、生きていると、やはり弱さを感じたり、不安や恐れにかられる時もある。

そのたびに思い出す。「アバウトになれ」と。


アバウトであるとは、様々な解決しがたい問題を前に、

必死で自分の力で解決しようとしてもがくのではなく、

神様に委ねて生きることにもつながる。

「自分には出来ないけれど、イエスさまよろしくね。」と委ねながら生きること。

それは、神様にのみ希望をおいて信仰によって歩むことである。


人間は、何かを心配したり、気にしたりするあまり、

物事を悪い方悪い方へ考えてしまったり、落ち込んでしまうことがある。

悪魔はそんな人間を絶望の淵へ追いやり、

生きる気力をなくさせようとしていることに注意しなければならない。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネの福音書10章10節より)」


しかし、神様は、私たちが神様に頼るなら、すなわち、羊の囲いの中にさえ入っていたら、

命がけで羊である私たちを守って下さる。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10章11節)

また聖書には、

百匹の羊のうちの一匹をなくしたら、九十九匹を野原に残して、

いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩いて下さる神さまの姿が書かれている。

神様はそのように、一番弱い羊、迷いやすい羊やいじめられている羊を守って下さる方である。


私たちが囲いの中に入った時に、神様は私たちを守って下さる。

神様が守ってくれるだけで私たちは安心なのだ。

神様は神様の助けを必要としている人を助けてくれるので、

私たちは弱くて出来ないままでよいのである。

そして、神様に愛されていることが分かったら、私たちは決して弱くはない。

神さまは弱い者を強い者に変えて下さることも出来る。

ここを通ったから強くなれる、ということもある。

神様の教会は、弱い人のための教会なのだ。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節より)

イエスさまは今日も私たちに語りかけて下さっている。

この神様に目を上げ、弱さをも神様に委ねて歩んでいきたいものである。