神田牧師が末期の膵臓ガンで、余命が1カ月しかないと医師から言われてから、
もうすぐ1年になる。
牧師は調子の悪い日もあるけれど、
相変わらず聖日礼拝の説教もしているし、
キリシタン研究の講演もやれば、
様々な人々のカウンセリングも続けている。
これには医師も驚き首をかしげている。
常識からすると不思議なことであるが、
神様には不可能なことはないし、
野崎キリスト教会の人々は、
神様に感謝しいやしを祈りつつ、見守っているところである。
神田牧師は、
「天国に行こうとしたら、
僕にぶらさがっている人間がたくさんいるのを見て、
神様にもうちょっとこの世にいるように言われたのかな」
などと笑って言っている。
確かに牧師は、教会内外で神様のために様々な活動をし、
特に困っている方には惜しみなく時間と労力をさいてきた。
その態度に、まだクリスチャンでない私の母も、
神田牧師の向こうにおられる神様の存在を感じ始めたようである。
牧師はよく「捨て身でやること」「捨て身でやれば、神様の働きを見られる」「捨て身でやれば、人は信用してくれる」などと言ってきた。
牧師は私のカウンセリングにも、一切料金を取らず、
私が本当に大変な時は、夜中でも何時間でも電話に付き合ってくれたりした。
そのような神田牧師のカウンセリングで、
心の病や様々な問題を乗り越えて、
人生に素晴らしい神様の光と喜びを体験してきた人も少なくないのだ。
そのような牧師が、残りの人生を神様のために生きていこうとする中で、
神様も働いて下さって、
この一年近くの間、牧師の命を生かし延ばして下さっているように思える。
捨て身で生きるとは、自分の命や大切なものを一切放棄する覚悟で生きることである。
それは、生まれながらの人間がたやすく出来ることではない。
しかし、神様は私たちを導いてその力を与えて下さる方である。
そして、私たちが自分自身を神様に委ね、神様のために生きようとする時、
神様は素晴らしい愛と栄光のみわざを見せてくださるのだ。
主イエス・キリストも、従順に神様のみこころに従って生き、
十字架の死を全うされたからこそ、
人類の罪の赦しと救いのみわざが完成した。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書12章24節)
自分の利益や損得にこだわっているうちは、
自分の狭い考えの中での自分のための人生でしかない。
しかし、神様を仰ぎ、捨て身で神様のために生きる時、
人が想像もしないような素晴らしい豊かな人生を神様が見せて下さるのだ。
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あきら、すなやま (月曜日, 25 4月 2016 10:01)
捨て身でいきるわかっていても、難しいですね