ダビデとゴリアテの対決
サムエル記上17:37-51
神を捨て王を求めたイスラエル
ヨシュアの時代から士師の時代を学びました。そして今日はサムエルの時代になると、イスラエルの民が、「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために…王を立ててください」8:5とサムエルに懇願したことが書かれています。
ここでは、「『裁きを行なう王を与えよ』との彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った」6とあります。
混乱した時代のリーダにふさわしくサムエルは問題が生じると「神様に祈った」と書かれています。彼が祈ると神様は「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。…彼らのすることといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった8:6-8…こうして、あなたたちは王の奴隷となる」と警告しています。今日の学びは、あなたは「王の王、主の主」として神様を信じているいるクリスチャンですか?
あなたの神様の他に王が必要ですか? 「あなたの息子・娘を徴用する」、「すべての物に十分の一税」を課せられる。
今の時代は「狂っている時代」としか言えません。本当の王を迎えよえとしないで、客間には神の御子イエス様が生まれる時、部屋が提供されないで「馬小屋に追いやられた」クリスマスの物語が新約聖書に書かれています。(ルカ2:7)
人が持っているから、隣りが行なっているから、自分たちも王がほしいと願ったイスラエルの民は、王を求めた故に、苦悩の生活に落ち込んでしまいました。
サウル王からダビデ王への道のり
最初の王に選ばれたのはサウル王でした。10章でサムエルから油注ぎを受けています。しかし、サウル王はサムエルの神様からの御言葉を退けた故に王位から退けられてしまいました。15:26
「サムエルは(サウル王に)言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしる、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる』」15:22との御言葉を…。
ダビデ王の信仰がゴリアテを倒す
ダビデはサムエルに油を注いで戴きました。16章参照
そして、「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」13のです。しかし、御言葉に従うことをしなかったサウル王は、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」14のです。
そのような時、ペリシテ人がエラの谷を挟んでイスラエルと対峙しました。しかも、ペリシテ軍の総大将で巨大なゴリアテが一対一の対決を申し出ています。イスラエル軍は巨大な武将ゴリアテに対して脅えるばかりです。
ダビデは、サウル王に「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません。」37と、ゴリアテとの対決の許可をもらいました。
1-サウルの甲冑ではなく、羊飼の投石で…
慣れていないものではなく、自然体で戦うことがクリスチャンの勝利の道です。先週のサムソンも、先々週のギデオンも武器が勝利をもたらしたのではなく、神様の御力によって勝利が与えられました。
聖書は私たちの戦いは、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」エペソ6:10-13と語られました。
ダビデはゴリアテに対して、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」47と語っています。
神様の働きで必要なことは、「権勢によらず、能力によらず…」であり、金でも、家柄でもない、信仰によって勝利することです。
2-神様が勝利を与えてくださる
あなたはすべてのことを用意できても、それが勝利に結び付くとはかぎりません。
ダビデの石投げの石も、鎧兜で完全武装のゴリアテの額に食い込むためには寸分の狂いがあっても撃ち殺す事は不可能です。しかも、「と石ころ一つで」彼を撃ち殺したことは奇跡です。「ダビデの手には剣もなかった」50とあります。
ギデオンの戦いも、剣も投石機もありませんでした。
信仰の勝利の秘訣は「神様が勝利を与えてくださる」ことを確信するのです。ラッパと瓶と、灯りと、わずか300人の兵士だけで敵陣に入り込みました。武器を一つも持たずに…。
3-敵の首を切り落とし、エルサレムに持ち帰った
神様の勝利は完全に敵を撃ち殺してくださるのです。十字架のキリストを見上げる時、私たちには武器も投石機もありませんが、神様が完全な勝利を取って下さったことを忘れてはならないのです。イエス様が十字架の上で「テテレスタイ(完了した!)」と叫ばれた救いの完成を、私たちの心の中に心に銘記していないと、いつも敵に脅えて生きていかなければならないのです。神様によって、すでにすべての人々に勝利が与えられているのに……。