真ったき信仰をもって神に近づこう
ヘブル人への手紙10:10-25
祭壇に立って同じ生け贄を繰り返す信仰11
ヘブル書10:1を読むと、「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです」と語っています。毎年、毎年、来る年も、来る年も、同じ宗教セレモニーをしている『影』であって、「完全になる」事が出来ません。あなたはいつまで、空しい「空を打つような拳闘を繰り返しているのでしょうか。
「旧約の律法は、実体のない『影』だ」と教え、詳訳聖書は『粗雑な輪郭』と表現しています。
そして、神殿で毎年同じセレモニーを繰り返して行動するために、「立って」います。安息を得るために、罪の赦しを得るために、彼らは同じ事を繰り返しをするために「立ち続けている」のです。
イエス様が「異邦人のように、クドクドと祈るな」マタイ6:7と教えられました。
完全な生け贄の故に立ち続けるのではなく神の右に座した12
それは、イエス様が十字架の上で完全な生け贄として、人類の過去・現在・未来のすべての罪を完全に許しました。
「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」13と、キリストは『完全な生け贄』として自らを献げた後、「神の右の座に着き」12と書かれています。
完全な救いの故に、神の右の御座着いているのです。
共同訳聖書では「キリストは唯一の:献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」14と宣言しています。
「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者とされた」14(共同訳)とあるが、言語的には「すでに完了した」と見なし、「聖なる者とされた人たち」は現在継続の時制であり、「絶えず聖められ続けている人々」と訳せる御言葉です。
イエスの血によって大胆にまことの聖所に入る19
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」19-22
どのようにして神に近づけるのか
1-イエスの血によって…イエス様が十字架に付けられ、息を引きとられる時、「テテレスタイ」(完了した)と叫ばれ、息を引きとられました。イエス様の完全な救いのわざが完成した時、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が「上から下へ」と引き裂かれました。
イエス様の十字架の救いは、神様と人間の間をふさいでいた幕の上から下へと裂けてしまいました。
それによってイエス様を信じる者にとっては、イエス様の血によるあがないによって、「大胆に・確信を持って・はばかることなく」聖所に入ることができるようになっているのです。
2-10:22では、「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」と、「水によるきよめ」が必要です。あなたは洗礼を受けましたか?
イエス様の生ける道を共に歩もう
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」25
信仰の道は、イエス様の少年時代のように、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された」ルカ2:52と記されているように、神様に対しては信仰を持って交わり、人に対しては信頼関係を持って進まなければならないですね。
本当に神様を愛して、22節にあるように、
1-血の注ぎを受けて、邪悪な良心を清められる必要があります。
あなたの心はイエス様の血によって清められましたか。
2-清い水で洗われましたか。
クリスチャンは洗礼を受ける必要があります。清い水で洗われる道は、イエス様すらバプテスマのヨハネから受けさせてもらいました。「自我に死ぬ一歩が洗礼です。
3-全き信仰をもつように。
11章に入ると「信仰」を正しく持ち続けるように指導しています。今日学んだ10章は「信仰」の学びへの布石として語られています。全き信仰は勧め合いや、励まし合う共同体でもある教会を正しく運営していくためにも、「神に近づこうではありませんか」22と語られ、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」 24と教えています。